文章と「あなたの考え」

文章系ライフハックにウザ絡みしてみました の下記の言葉が刺さった。

 でもさー、なんでだろうね、こうやって書かれた文章論の文章が、揃いも揃って無味乾燥で魅力らしい魅力がぜんぜんないのって。精進が足りないから? 努力不足だから?

 違うね。

 ほかならぬ「あなた」は、なにを考えているのかっていう問いに答えてないから。

 文章に書かれる理由があるとしたら、そういうものじゃないの?

以前、話し方教室の一日講座に行ってみた時に、スピーチの内容について「あなたが感じたことじゃなくて、分析になっている」と指摘された時のことを思い出した。

仕事で文章を書く時には「分析」で不自由していないし、また困ることもない。だけど、そうでない文章を書く時にも分析になっていると、自分で読み返して見てもあんまり面白くない文章になってしまっている。そもそも日記的なモノを書く時ですら分析になっていて、「その時に自分がどう感じているか」が全然含まれない文章を書くことが多い。いや多いというよりは、ほとんどそうなってしまっている。

文章術の本に、「話すように書きなさい」と書かれていることがある。また別の文章術の本では、それを批判して「話すように書かれた文章は、論理が成り立っていなくて支離滅裂になってしまう」と書かれているものも見たことがある。今までは前者のことは「話すことならできるでしょう。変に身構えるよりは、話している時のまま書きなさい」ということを言っているんだと理解していた。だけどこれは、「話す時のように、多少内容があちこちにフラフラしても構わないから、自分の思考や考えもあわせて書きなさい」ということを言っているんじゃないかと思った。

スピーチ原稿を用意して話す時は別として、何かを話している場合は「伝えたいことに向かって、まったく寄り道せずに一直線にたどり着く」というのはなかなか難しい。でも、どういう経路をたどってその結論にたどり着いたのかを共有することが出来るので、逆に相手に伝わりやすいことも多い。

肉の脂肪と文章の余分

肉の旨さは脂肪だと聞いたことがある。ただ、適切な量の脂肪が含まれる肉は美味しいけれど、脂肪ばっかりだと油が多すぎて気持ち悪くなってしまう。文章に含まれる余談や、本論にたどり着くまでの思考の試行錯誤は、肉における脂肪のような機能を果たしているんじゃないだろうか。

ほど良い寄り道や無駄があることにより、その文章の美味しさが引き立つ。脂肪が全くなく、ロジックの強さだけで美味しさを感じさせてしまう文章は、最高級の肉のようなもので、それが出来るに越したことはないけど、凡人がそれに到達するのは無理だろう。

書くことで考えがまとまるということは良く言われるし、自分自身が文章を書く理由の一つもそれだけど、実行するのは中々敷居が高いと感じてしまう。あらかじめどこに行くのかが未定な状態で書き始めることにより、自分でも思っても見なかった事に気付くことが出来るかもしれないというメリットがある一方、どこにもたどり着けないんじゃないかという恐怖心も強く感じてしまう。

ただ、論文を書いているわけではないので、必ずしも論理が一貫している必要も無いんだろうとも思う。少なくとも、考えを深めたり、あるいは考えるためのキッカケとなるのであれば、その文章は機能を十分に果たしているとも言える。変に難しく考えてしまって文章を書けないよりは、多少フラフラしていたとしても、数多く書いた方がいいんだろうな。量が質を生むということもあるので、しばらくは数をこなすことに注力して、思いつくまま文章を書いてみることに挑戦しようと思った。