精神障害とノマドワーカー

先日どこかのサイトで、健常者と義足の人が陸上競技をやった場合、義足の人の方が健常者よりも圧倒的に速かったという記事を読んだ。義足の軽さと反発力により、もはや反則に近い速度が出るそうだ。

「障害」は英語で言うと disability と言う。つまり、行動などの「ability」を制限されている状態を指している。にもかかわらず、「義足だと圧倒的に有利」というのは何だか皮肉な印象を受ける。肉体的なことだけではなく、精神障害にも同じことが言えるんだろうか。ふと気になった。

朝のホームに出没する自由人

ほとんど毎朝、駅のホームで大声を出しながら車掌の真似をする男性がいる。もし自分の近くに立たれてやられると、イラつくと思う。でも端から見ている分には害もないし、何だか楽しそう。赤ちゃんや子供と同じ。思った時に思った行動を取れるので、とても自由に見える。「自由人」という言葉を連想した。

一方で、ごく普通の通勤者はどんよりしていて、何だか辛気くさい。もちろんだからと言って、みんなが「自由人」の真似をすればいいという訳ではない。みんなが少しずつ気を使いながら社会が出来ている。みんなが好き勝手やりだすとむちゃくちゃになってしまう。「自由人」はある意味、みんなが作った社会にフリーライドして、美味しいところだけ食べているとも言える。

ノマドワーカー

ちょっと前から鼻につくようになった「ノマド」賛歌にも、同じような感じを受ける。

「毎朝ラッシュの電車に乗って出勤したり、会社で面倒くさい人間関係などに振り回されるのは嫌だ。フリーランスとして自由に生きていくんだ」

もちろんどういう生き方をしようと、個人の選択の自由だ。ただ、(明言しているかどうかはともかく)「ノマドという生き方を選択した自分は、普通の勤め人よりもすごい」というような意見には違和感を感じる。通勤の苦労に始まり、社会を回すための不合理だけど誰かがやらないといけないような仕事。面倒なことを誰かがやっているから、ノマド的な働き方も成り立っていると思う。

ただノマドを煽っている人は、ノマド的な働き方にメリットを感じてそれを広めようとしていると言うよりは、ノマド的働き方をする人が増えると、自身に何かメリットがあるんじゃないだろうか。そういう見方で賛歌している人を見ると、また違う物が見えてくる。