カテゴリー別アーカイブ: 思考整理

文章と「あなたの考え」

文章系ライフハックにウザ絡みしてみました の下記の言葉が刺さった。

 でもさー、なんでだろうね、こうやって書かれた文章論の文章が、揃いも揃って無味乾燥で魅力らしい魅力がぜんぜんないのって。精進が足りないから? 努力不足だから?

 違うね。

 ほかならぬ「あなた」は、なにを考えているのかっていう問いに答えてないから。

 文章に書かれる理由があるとしたら、そういうものじゃないの?

以前、話し方教室の一日講座に行ってみた時に、スピーチの内容について「あなたが感じたことじゃなくて、分析になっている」と指摘された時のことを思い出した。

仕事で文章を書く時には「分析」で不自由していないし、また困ることもない。だけど、そうでない文章を書く時にも分析になっていると、自分で読み返して見てもあんまり面白くない文章になってしまっている。そもそも日記的なモノを書く時ですら分析になっていて、「その時に自分がどう感じているか」が全然含まれない文章を書くことが多い。いや多いというよりは、ほとんどそうなってしまっている。

文章術の本に、「話すように書きなさい」と書かれていることがある。また別の文章術の本では、それを批判して「話すように書かれた文章は、論理が成り立っていなくて支離滅裂になってしまう」と書かれているものも見たことがある。今までは前者のことは「話すことならできるでしょう。変に身構えるよりは、話している時のまま書きなさい」ということを言っているんだと理解していた。だけどこれは、「話す時のように、多少内容があちこちにフラフラしても構わないから、自分の思考や考えもあわせて書きなさい」ということを言っているんじゃないかと思った。

スピーチ原稿を用意して話す時は別として、何かを話している場合は「伝えたいことに向かって、まったく寄り道せずに一直線にたどり着く」というのはなかなか難しい。でも、どういう経路をたどってその結論にたどり着いたのかを共有することが出来るので、逆に相手に伝わりやすいことも多い。

肉の脂肪と文章の余分

肉の旨さは脂肪だと聞いたことがある。ただ、適切な量の脂肪が含まれる肉は美味しいけれど、脂肪ばっかりだと油が多すぎて気持ち悪くなってしまう。文章に含まれる余談や、本論にたどり着くまでの思考の試行錯誤は、肉における脂肪のような機能を果たしているんじゃないだろうか。

ほど良い寄り道や無駄があることにより、その文章の美味しさが引き立つ。脂肪が全くなく、ロジックの強さだけで美味しさを感じさせてしまう文章は、最高級の肉のようなもので、それが出来るに越したことはないけど、凡人がそれに到達するのは無理だろう。

書くことで考えがまとまるということは良く言われるし、自分自身が文章を書く理由の一つもそれだけど、実行するのは中々敷居が高いと感じてしまう。あらかじめどこに行くのかが未定な状態で書き始めることにより、自分でも思っても見なかった事に気付くことが出来るかもしれないというメリットがある一方、どこにもたどり着けないんじゃないかという恐怖心も強く感じてしまう。

ただ、論文を書いているわけではないので、必ずしも論理が一貫している必要も無いんだろうとも思う。少なくとも、考えを深めたり、あるいは考えるためのキッカケとなるのであれば、その文章は機能を十分に果たしているとも言える。変に難しく考えてしまって文章を書けないよりは、多少フラフラしていたとしても、数多く書いた方がいいんだろうな。量が質を生むということもあるので、しばらくは数をこなすことに注力して、思いつくまま文章を書いてみることに挑戦しようと思った。


鉄道会社保有の物件は快適なことに気づいた

うちは賃貸派なので、これまでいろんな物件に住んできた。物件を選ぶ時は賃料や広さのバランス、駅からの時間などといった、まあごく普通の基準で選んできた。ただ、その物件を誰が所有しているのかという視点も、選ぶ時の基準として考慮すべきなんじゃないかと思った。

これまで10回近く引っ越ししてきた。その規模に差はあれど、それらの物件の所有者は個人の大家さんだった。ただ今住んでいるところは、沿線開発の一環で鉄道会社が保有している物件。法人所有の物件は今回初めての経験だ。

この物件は、ケーブルテレビやNTTの光回線が無料で付いてる所からはじまり、具合の悪い所があったらすぐに修理・無償交換される。毎週マンションの清掃がきっちり入る。また自転車のイタズラがあったら、すぐに監視カメラが設置される、などなど。引っ越してきた当初から、管理費は5000円程度しか取ってないのに、えらく待遇がいいなと感じていた。これまでまったく気にしていなかったけど、鉄道会社の保有物件だったんだということにふと気づいた。

先日、仕事の関係で某鉄道会社の、沿線開発を担当している人と話す機会があった。鉄道会社保有の物件は、もちろん不動産収入を得るという側面もある。ただもっと重要なのは、沿線に人を誘致して「沿線を盛り上げる」ことらしい。沿線によっては、地域の年齢層が上がってしまっているため、再開発を行い、かつ安目の賃料の物件を建てることにより、若年層を沿線を・地域に誘致するということまで戦略的にやっているんだそうだ。もちろん単に平均年齢を下げることを目的としているのではなく、増やした若年層に対して色々な方法で訴求していくことを狙っている。

個人の大家保有の物件だと、あくまでも物件単体で収支を考える必要がある。税金対策のためにアパート・マンション経営しているというケースよりも、資産運用の一貫としてやっていることが多い。そのため、どうしてもお金がかかることに対してシブくなってしまうというのは、わからなくもない。ただ管理費を支払っている立場としては納得いかない気持ちもある。住んでいるとどうしても、何かが故障したり、あるいは共有スペースや外観が汚れてくるのは避けられない。その時にいかに対応してくれるかによって、直接意識することは無いにしても、住みやすさやストレスなどは変わってくる。

部屋や住環境といった「スペック」だけではなく、その物件を誰が所有しているのかや、共有スペースの状況や定期清掃の内容や頻度など、「管理」にどれぐらいコストをかけているかということを確認することも、物件を選ぶ時には重要な要素となってくるんだろうな、と思った。


Yahoo!クラウドソーシングの恐ろしい可能性

クラウドソーシングサイトは、大きく二種類に分けることが出来る。

古くは 楽天ビジネス、最近だと クラウドワークスランサーズ といった、ある一定以上のボリュームを持った「仕事」をやりとりするというプラットフォームと、クラウドワークスとの業務提携で生まれた Yahoo!クラウドソーシング のように、「タスク」をやりとりするプラットフォーム。働き方の多様性を増やすという意味では前者も面白いサービスだけど、個人的には後者にこそ将来性を感じている。

Yahoo!クラウドソーシング のタスクを実際に見てみるとわかるけど、「タスク」には非常に単純な物が多い。例えば「スターウォーズエピソード4 日本版 [DVD] 」という文字列から映画のタイトル部分を切り出して「スターウォーズエピソード4」にするとか、表示された言葉が人名やニックネームかどうかを Y/N で答えるとか。

一昔前のWebサイトの黎明期の時代は、例えば画像認識であったり、日本語全文検索、レコメンドエンジンなど、「独自のアルゴリズム」とそれを実装したライブラリを持っている企業が競争優位性を持っていた。しかし現在では、その多くの物はフリーで公開されていたり、APIで無料で呼び出せるサービスとして提供されるようになっている。そのため企業あるいはエンジニアの価値の出しどころは、色々なライブラリなどを知っていて、「これを実現するにはどうすればいいか」という一種キュレーション的というか、いかにうまく組み合わせられるかという編集的スキルに移ってきている。

これの究極の形が「タスク」型のクラウドソーシングだと考えている。例えば写真をアップするとタグを付けてくれるというサービスを作る場合。これを技術で実現しようとすると、画像認識からはじまり、膨大なマッチング用のデータと比較して、「それが何か」ということを特定する必要がある。これを実現するためには技術的にもデータ量的にも非常に敷居が高い。しかしこれをクラウドソーシングと繋ぐことで、簡単に実現できるようになってしまう。

料理の写真をアップすると料理の名前を返すという機能でもいいし、ちょっと敷居が高くなってしまうけど、料理の写真からレシピを返すということも、理屈としては可能になる。

もちろん画像に限らず、人間が手軽に出来るものであれば何でも構わない。人間の処理速度よりもスピードが必要な場合は難しいけど、量の問題であれば大量の作業者によりカバーできる。

グローバル市場での先行者事例は 2005 年からある Amazon Mechanical Turk で、Yahoo!クラウドソーシング はこれのパクリ。Amazon Mechanical Turk の導入事例として、写真にタグ付けをする有料サービスが確かあったんじゃないか。ユーザからは30円をもらい、それを10円の報酬で依頼。ただそれだけで差額20円を得ることが出来る。

Yahoo!クラウドソーシング にはまだAPIが無いけど、遅かれ早かれ用意されるだろうと思う。そうなったら、日本のWebサイトのアーキテクチャが大きく変わる可能性を秘めている。今後の展開が楽しみだ。


「年齢確認ボタン」と「意図を伝える」

コンビニの成人確認ボタンを押すことを求められた65歳の男性。怒って暴れたために逮捕されたという話が、あちこちでニュースになっていた。

ほとんどコンビニで買い物をしないので、どういう表示なのか正確にはわからないけど、画像検索をする限り「20歳以上ですか?」という表示と、「はい」というボタンが表示されるインターフェースのようだ。確かにこれを見ると「見りゃわかるだろ?」と思って、イラっとする気持ちはわからなくもない。ボタンを押すという「手間」が問題なのでは無く、「無意味な行為」と感じさせることに対してストレスを感じるんだろう。そういえば、公共料金の支払いで「同意」というボタンを押させられる時に、同じように感じたことがある。

飲食店で数人以上でオーダーした時に注文を読み上げる行為も、これに近い感じを受ける。誰が何を注文したのかわからないので、読み上げるという行為が何の確認にもなっていない。だから仮に間違った注文が来た場合には、読み上げていようがなかろうがクレームになる。

店舗側の立場で見ると、ボタンを押させることや読み上げて確認という行為によって、責任の所在を店側から顧客側にしたいという意図があるんだろう。ただ、「それは何目的なのか?」という視点を持たない相手には理解されない。行為に対する目的が相手側に伝わっていないから、「無意味な行為」と思われてしまい、トラブルにつながってしまう。

例えばこれが、「私は20歳以上で、未成年者飲酒禁止法に違反していません」というボタンだったらどうだろうか? こういうラベルであったら、単なる年齢確認だけではなく「相手に同意を求めている」ことが伝わるんじゃないか。もちろん実際にはもうちょっといい文言にした方がいいけど、要するに「無意味な行為」ではなく、同意により店側の何らかのルールに協力してもらう、ということが伝わればいい。


電子書籍を違和感なく読むには、書き手の環境との一致が必要

月末までセールになっているということもあり、そのうち読もうと思っていたGene Mapperを、iPad mini のKindleで読んでみた。業界人にとってはニヤリとさせられる点もあり、面白く読めた。ただ、もしこれがそのまま紙に印刷されていた場合には、すごく読みづらいんじゃないかとも感じた。

文章術の本なんかを読むと、パラグラフライティング、つまり同一の内容は同一の段落にするように書かれている。ただWeb上の文章の場合には、そのルールに厳密に従ってしまうと余白が少なくなり、とても読みづらい文章になる。ただ、その文章を紙に印刷した場合には、物理的に同じサイズの文字や余白であったとしても、読みづらさを感じないことが多い。またその逆に、画面上では余白も充分で読みやすいものが、印刷して読んだ場合に情報がスカスカに感じてしまう、ということも少なくない。

媒体により、読みやすく感じる情報量は大きく異なる。文書のリズムと言い換えてもいいかもしれない。電子媒体の上で読むのと紙の上で読むのとでは、「読みやすい」と感じるリズムが異なる。ただ、Kindle上で少なくとも50冊ぐらいは漫画を読んだけど、特に紙とのズレのようなものは感じなかった。何が違うんだろう?

リアル・電子に関係なく漫画を読む時には、1ページを一つの単位として捉えているように感じる。各コマはそのページの中で繋がりを持ったパーツの一つで、それらの流れをまとめて読んでいるんだろう。コマの数はページごとにマチマチだけど、固まりとしての「ページ」は常に1ページ、あるいは多くても見開き2ページしか無い。描き手側も1〜2ページという、物理的な制約を前提として漫画を描いている。1画面の中で見える情報量も重要だけど、「1つの固まり」として認識するためには、ページめくりも大きく関わってくるんだろう。

一時期、なぜか流行ったケータイ小説。PC、携帯電話の実機、紙。同じものをそれぞれの媒体で見比べてみると、まったく別物のように感じられる。(小説の内容はともかく)実機で読んだ時にはあまり感じないのに、PCや紙で見てみた時の違和感はものすごい。多くのケータイ小説は、携帯電話そのもので書かれたらしい。書き手の環境と読み手の環境に差異があると、感覚のズレ、リズムのズレのようなものが大きくなる。画面スクロールだとそうでもないけど、ページめくりの時にはそのズレを感じやすい。書き手よりも広い環境で見るとスカスカ。逆に狭くなると、情報過多による圧迫感を感じる。

Gene Mapper は、インタビュー記事を読んで見ると、ほとんどiPhoneとiPadで書いたらしい。iPad (mini)で読んだ時に違和感を感じずに読めたのは、そのせいなんだろう。だとすると、教科書や専門書、あるいはビジネス書などのように「情報」を得ることを目的としたものならともかく、そうでない場合には電子書籍として読むのは辛いかもしれない。書籍としての出版を前提としていたり、PCの広い画面で電子書籍を意識せずに書かれたものとか。


「プロ」って何だろう

最近、自身の肩書きとして「プロブロガー」を名乗っている人がいるのを知った。不思議と他人が「この人はプロブロガーです」と言うことは少ないみたいだ。名乗ったもの勝ちなんだろうけど、世の中に色々な「プロ」が増えてきたように感じることが多い。

「プロ」の定義を調べてみると、「その分野で生計を立てていること」とあった。また日本語の場合には「専門知識・技術を有していて、かつ第三者がそれを認めている」という意味も含まれるらしい。

自分の感覚だと、アウトプットでお金を取っていればプロなんだと思っていたけど、「それで生計を立てているかどうか」ということが必要となるようだ。たとえ高品質、高価格のお金を取れるアウトプットであっても、お金をとっていなかったり、それで生計を立てていなければ「プロ」の定義には当てはまらない。それだと単に「お金の取れるアウトプット」ということになる。

例えクオリティの低いアウトプットであっても、また、たとえ年収が150万円であっても、それで生計を立てているのであればプロと言える。生活のためのコストを切り下げれば、「生計を立てる」ハードルも下がる。今は色々なものやサービスの価格が下がり、生活のためのコストも下がっている。色々なものに値段がつくようになったし、そのためのサービスなど各種の仕組みも整備されてきている。

生計を立てるための敷居が下がった結果、「プロ」となる条件も下がっている。ブログのアフィリエイトや広告で生計を立てているのであれば、プロブロガーと名乗ってもいいんだろう。何をやっても食えるような世の中になってきているのはいい事だけど、プロの乱立により、プロのありがたみのようなものも薄れているような気がしてならない。

「プロ」の定義と過剰品質

お金を貰えて、かつそれで生計を立てられていればプロと言える。ここには、必ずしも品質という視点が入るわけじゃない。例え低い品質であっても、相手側の要件を満たしており、またそれにお金が支払われるのであればいい。言い換えると、「相手が満足」してさえいればいい。

スーツとギークの対立というか、エンジニアのアウトプットが、事業側の人間の視点からは過剰品質として捉えられてしまうことが多いように感じる。実際には誤解であったり、エンジニア側のコミュニケーション力の問題だったりもするんだろうけど。


「給与は利益の山分け」と言われた当時、どうすべきだったんだろう?

もう10年以上も昔の話。当時仲良くしていた人が起業するということで、その初期メンバーとして参画しないかと誘われたことがある。

その時に働いていた会社は、そんなに大きくはなかったけど、特に大きな不満があったわけじゃなかった。いや院卒の後輩と比べて、評価は高いのに給与が安いことに納得がいかず文句を言いまくっていたんだった。とにかく「成長したい」という欲求が強かった時期で、カンファレンスやセミナーでの講演、雑誌や書籍の執筆など手当たり次第に手を出していた。

その人とはどこかのイベントで出会って意気投合して以来、何かとコミュニケーションしていた。まだ自分自身も若く、早いうちならベンチャー企業に入って(失敗して)もリカバリー出来るだろうという思惑も有り、ほとんど悩むこともなく参画することを決めた。

給与に関しては「うちの会社は、みんなで稼いでその利益を山分けするモデルです」というポリシーで、自分も含め全員その説明だけで納得して入社していたけれど、細かい条件などはまったく話していなかった。今思い返しても「若かったなー」と思えてならない。

実際に受け取った給与は、当時の業界平均よりちょっと少ない程度。正確な利益は把握していなかったけど、クライアントから貰っているはずの金額の総額と比較すると、明らかに少なかった。貰っている給与の三倍位のお金を稼いで会社の収支はトントンになる、と言われるけど、およそ10倍ぐらいの利益を上げ続けたと言うと、その不自然さがわかるかもしれない。

だいぶ後でわかったことだけど、その人だけが圧倒的に多い金額を受け取っていたことが発覚した。運転資金の個人保証まではしてなかったけど、経営者としてリスクを負ってる分、多くなるのは理解できる。ただそれを加味したとしても、それ以上の差があった。

発覚した後は会社中に不信感が段々と広がっていき、一人抜け、二人抜け。最終的に、自分も喧嘩別れをすることになった。色々調子のいいことを言われていたけど、言うのは無料だよなーと気づいてしまった。一度その発言のウソに気づいてしまうと、すべてが信用できなくなってしまった。

どうすべきだったんだろう?

自分も子供だったので、まさかそういう事で騙したり誤魔化したりする人がいるとは思っていなかった。素直に受け取りすぎた。

どうすべきだったんだろう?

財務を押さえる時の基本は、その入りと出を押さえること。つまり、月次位のペースでBSやPLを共有してもらうべきだったんだろうな。また「利益を山分け」はいいんだけど、その時のルールを明確にするべきだった。

ただ今思うと、「納得」が欲しかったんだと思う。「給与の絶対額」や「その人が貰っていた金額との差額」は全然問題じゃなかった。隠してコソコソやるのではなく、明確なルールの元、フェアであって欲しかった。今さらそれに気づいても手遅れなんだけど、「ルール」を納得行くまで確認しておくべきだった。「ルールの把握と納得が無いと、そのルールの元でプレーするのは難しい」ということに気づけたのが収穫なのかもしれない。


「無料で使ってもらう」には、「後が面倒くさいかも?」と思わせたら負け

フリーミアムやプラットフォーム戦略などの考え方が珍しくなくなってから、IT・リアルに関わらず「プラットフォームを使ってもらうために、最初は無料で集客をする」という施策が、色々な分野・業界でごく当たり前のように実行されるようになった。むしろ猫も杓子もというか、「あまり考えず、安易に実行してないか?」と感じることも増えてきたように思える。

先日うちの嫁から、子供の予防接種に行った帰りに病院の前で、生協のセールスに声をかけられたという話を聞いた。生協ということを名乗ったあとに、「キャンペーン中で無料です。人参をお届けしてもいいですか?」と言われたそうだ。自分の生協のイメージは共同購買型だったけど、どうやら最近は個別配送型もやっている、いやむしろそっちの方が主流になっているらしい。

生協に限らず、繰り返し利用するような媒体は、利用し始めるまでの敷居をいかに乗り越えるかということが重要になってくる。

嫁にそれでどうしたかを聞いてみると、

「届けてもらった後、売り込みされたり何だか面倒臭いことになりそう。たかだか人参をもらうためだけに、面倒な目に合うのは嫌だ」

と思って、即答で断ったらしい。もし自分が生協の担当者だったら「とにかく一回使ってもらう」ために、同じように無料で商品を配るという施策を実施してしまったかもしれない。

Kindleコンテンツのマーケティング

自身でも サラリーマン金太郎の1巻無料キャンペーン に見事にやられてしまっているけど、Kindleのコンテンツの無料あるいは大幅値下げキャンペーンは、流石だなと感じることが多い。

携帯電話の契約やスポーツクラブの入会の時に、「入会金あるいは最初の何ヶ月分かの料金が無料になる」というキャンペーンを実施していることが珍しくない。これらは同じ「無料」ではあるけど、プラットフォームを使ってもらうために無料にするという施策とは、狙いが異なる。本契約自体が必要となるため単なる値引きに過ぎず、また既存の利用者・入会者がそのキャンペーンで得をすることはない。むしろ「いま加入するとこんなに得をするのに(自分はその恩恵を受けることができない)」というマイナスの印象を与えてしまう。定期的に解約・退会をしてキャンペーン期間中にまた加入、という方法を取った方が支払い総額が少なくなることも多いため、あまり筋がいいとは言えない。せいぜい解約金や何らかの縛りを設けることぐらいしか対策が無い。

一方Kindleのコンテンツの場合。Kindleというプラットフォームを使ってもらうことを目的として、人気コンテンツが一定期間だけ無料になるというキャンペーンをすることも多い。定期購読型ではないというのもあるけど、格安・無料キャンペーンが対象となるのは「そのコンテンツの価格だけ」ということがはっきりしているため、生協のように後で何かを売りつけられたり、面倒な目に合うかもしれないと心配する必要がない。

また無料や値下げの影響があるのは「そのコンテンツそのもの」なので、まだKindleを利用していないユーザだけではなく、既存のユーザも恩恵をうけることが出来る。扱うものがデジタルコンテンツということもあり、ほとんどが固定費のため、コストをあまり考えずに無料化するという施策を実施しやすい。流れがシンプルで、戦略ストーリーの筋の良さを感じさせられる。

生協はどうしたらよかったか?

明示的に「一度無料で配ったあと、パンフだけ置かせてください。ドライバーは商品を渡す以外のことはやりません(セールスしません)」と周知するのはどうだろうか? いやそうは言っても、これを信頼してもらうのは難しいだろう。

ようは「無料でもらったあとに、面倒なことが待っている」と感じさせなければ、相手に渡すこと自体は成功するはずだ。例えばその場で「生協の人参を無料で配ってまーす。ぜひ一度お試しください」と言ってパンフレットと一緒に渡した場合、受け取ってくれる可能性は上がるのではないだろうか。

ふと気づいた。要するにこれは、駅のティッシュ配りと同じ構図だ。確かに「プラットフォーム」を一度使ってみてもらうことは重要ではあるけど、そのために無料配達で訴求するというのは無理筋というか、あまり効果的じゃないように思える。じゃあどうすべきか。

いっそのこと、「注文しなくてもいいんで申し込みをしてくれたらキャッシュバックします。キャッシュバックして解約してもいいです」とするのはどうか。あるいは変に小技を効かせずに、普通にメニューと注文用紙をポスティングしておけばいいんじゃなかろうか。人参無料配送で訴求するよりは少しはマシなような気がする。


ヒューマンスケールと抽象化

最近どこかでオススメされていたので、ミシマ社の「小商いのすすめ」という本を図書館で借りて読んでいる。まだ読み始めたばっかりだけど、第一章に「ヒューマンスケール」という言葉が出てきた。

「ヒューマンスケール、すなわち自分の身の丈以上のテクノロジーや金融経済に振り回されてしまっている。こんなものが成長と言えるのだろうか。」

まだ全然読んでないのでわからないけど、おそらくこういう論調で話が進んでいくんだろうと思われる。先に進んでいくとクリアになるのかもしれないけど、何だかいまいちモヤモヤしている。確かに、自分のキャパやスケール以上の物を取り扱おうとすると振り回される、というのは理解できる。ただそれは、進め方を間違えてるような気がしてならない。

「走る速度を早くするために、頑張って速く走る」

これは一つの解だとは思うけど、それだと上限に限界があるし、継続性に問題が出てくる。他人を使ってスケールさせる。抽象度を上げる。どちらでも、あるいはその両方でもかまわないけど、要するに「速く走る」以外の方法を選択すればいい。

抽象化には、(重要度の低い)情報の圧縮と、要約する効果がある。自身で生のまま扱おうとしても出来ないことであっても、抽象化することでヒューマンスケールにレバレッジをかけることが可能になり、身の丈以上の物を扱えるようになる。身の丈以上の物に振り回されているという状態は、抽象化が不充分あるいは不適切になってるんじゃないかと思った。


ネットリテラシー教育は、アクセス制限の方法を最優先で理解させるべき

今の時代は全部ネット上だけになってしまったのかもしれないけど、今から20年ぐらい前は、あちこちに雑記帳が置いてあった。ゲームセンターのように不特定多数が集まるところはもちろん、誰が始めたのかわからないけど、バイトのバックルームのような所にも置いてあった。ゲームセンターの雑記帳の記憶はあんまり無いけど、バイトのバックルームにあった雑記帳は当時よく読んでいた。

内容は誰かの独り言だったり、ふと思ったことを書いてみたり。あるいは何かやろう、どっか行こうという呼びかけとか。自分は他の人の書いたものを読むだけだったけど、読むだけとはいえ、同じバイトというだけでどういう人なのかよく分からない人達の見てるものなどがわかり、何だか面白かった記憶がある。いま思うと、SNSみたいだ。mixiのコミュニティに近いかもしれない。

客商売をやっていると、どうしても嫌な客や出来事は避けられない。今改めて考えてみると、バックルームに置いてある雑記帳は、ガス抜きのような役目を果たしていたんだろうと思う。バイトが長続きしている人だからいっぱい書いているのか、いっぱい書いているから長続きしているのか。あるいは両者に因果関係は無いのか。理由はわからないけど、いっぱい書く習慣のある人の方が長く働いていたように思う。

雑記帳の公開範囲

雑記帳の場合はそれが置かれている場所によって、誰に読まれるのものなのかすぐに理解することができる。不特定多数なのか。あるいは同じバイト仲間のような限定された人間だけなのか。ネット上での情報発信ではリアルな感覚が無い分、ついついどこに公開されるものなのかを忘れて情報発信をしてしまいがちになる。例えば個人情報など公にすべきじゃない詳細なプロフィールや、あるいは内輪だけで話すべき内容であるとか。もちろん子供だけではなく、あまりITリテラシが無く、誰に見られるものなのかわからずに使っている大人でも同じだけど。

昔は内輪の雑記帳にだけ書かれていたような内容が、ツイッターなどのメディアに書かれてしまうようになった。書く方はそれがどこに公開されているのか理解せずに、内輪だけのメディアのような感覚で書いてしまう。それがたまたま不謹慎な内容だったりすると、まったく想定していなかった第三者に晒しあげられて祭り・炎上してしまう。書いている内容は、実は昔も今もそう変わっていない。ただ、それを書いているメディアと、その内容が公開される範囲が異なっている。雑記帳の内容が突然その店に来る客に公開されてしまっていたら、間違いなく同じような炎上案件になっていたはずだ。

今のネットリテラシ教育はネットの危険性であったり、そこから自分をどう守るか、またそのためには情報発信に気をつければいいかを一生懸命教えているわけだけど、いまいち効果が上がっていないと思う。そうでなければ、こんなに次から次へと問題発言があらわれることはないはずだ。特にツイッターは別名「バカ発見器」とも言われるぐらい、炎上しそうなネタには事欠かないメディアになってしまっている。

おそらく教育する側も、内容をきちんと理解していないんじゃないだろうか。何を書いていいか、どう書くかなど、他人に見せる内容を適切なものにするという視点での教育ももちろん重要。でもそれよりも前に、「公開範囲を限定する」ことや「限定しないと世界中に見えてしまう」ということを一番最初に、相手が腹落ちするまで繰り返し伝え続けることが必要じゃないかと思う。限定できないような時は書かないようにする、であるとか。

結局、人の中身なんて時代が変わってもそう大きく変化するわけじゃなく、自分の時も含め、若者は常に「バカ」だ。後から振り返って見たら赤面するようなことはあっても、公開先さえ限定されていれば、炎上したり何らかのトラブルに巻き込まれるリスクはかなり減る。内容に関しての教育は、その後にゆっくりやればいい。

世の中の「炎上案件」のほとんどは、書いた人間が本来想定していた公開範囲に限定されていれば、まったく問題は発生しなかったと思われるものが多い。もちろんその内容そのものについての是非はあるとは思うけど、それこそ、それを教育するのは難しい。いや不可能かもしれない。