月別アーカイブ: 2012年12月

高圧洗浄がやってきた

前々から連絡はされていたけど、マンションの高圧洗浄の人達がやってきた。めちゃめちゃ寒い中、各部屋を回らなくていけないので大変そうだ。作業そのものはこっち側でやらないといけないことは何も無く、せいぜい水回りを片づけておくことぐらい。10分位であっという間に終わった。

しかし、高圧洗浄は一件ずつ別々の日にできるようなものではなく、一階から順番にいっせいにやっていかないといけないので、スケジュール調整が大変そう。実際、実施の一ヶ月前ぐらいから数回に渡って階ごとのスケジュールがボスティングされ、その後に当日に在宅出来るかどうか確認の電話が来た。

仕事でも、複数事業部で足並みを揃えないと実施できないような施策を推進することが多いので、利害や事情の異なる者同士のスケジュール調整がいかに大変なことか身にしみる。

そんなわけであっという間に終わってしまったけど、水回りに特に不都合を感じてたわけじゃないので、洗浄が終わってもふーん、という感想だけだったのが残念。


喫煙所とコミュニケーション

最近、身の回りの人達の間で、煙草を吸っている人が少なくなってきたように感じる。煙草の増税に伴ってその値段が上がったことや、健康のために禁煙ということもあるようだけど、止めるきっかけとなった理由で一番多いのは、吸う場所がどんどん無くなってきたかららしい。

自分の会社のビルでも、最初の頃は入り口の横あたりの、きちんと屋根のあるところに喫煙場所があった。ただ、ウロウロしながら煙草を吸う人が居たり、煙が流れてくるという苦情が寄せられたことから、ビルの横に喫煙場所が移された。吹きっさらしで屋根もないので、雨の日には傘を差しながら寒さに震えながら煙草を吸う姿をよく見かける。

辛い思いをしながら煙草を吸っていると、知らない人同士でも一種の連帯感のようなものが芽生えるらしい。自分はまったく煙草を吸わないので、そこで生まれるコミュニケーションやその仲間意識のような物をうらやましく思う。

どうにかして非喫煙者にとっても同じような場所が作れないものか、考えたことがある。食堂がわりと近い位置づけではあるけど、飲み物や食べ物を買ったらすぐに出て行ってしまうため、あまりそこで立ち止まったりする人が少ない。残念だけど、喫煙所ほどは意外な出会いによるコミュニケーションが起きる確率が少ない。そこに人が居ないんだから当たり前ではあるけど。

以前どこかで、確かあれはコクヨのイノベーションオフィスだったか。面白い施策をやっているという記事を読んだことがある。出社して入り口のタイムカードにもなっているモニターにタッチをすると、その日に自分が座る席の位置が表示されるそうだ。つまり座席が毎日ランダムで決まる。厳密には完全にランダムで座席を決めているわけじゃなく、ある程度は関係のある人同士が同じ島になるようなアルゴリズムになっているらしい。

各座席は数人ぐらいの島になっており、まずは自己紹介などからはじめることで、意外なシナジーが生まれているとのこと。仕事が忙しくなってくると、どうしても同じようなメンツとツルむことが多くなってしまうため、そういう仕組みがあると人材交流が進んでいいな、と思った記憶がある。

そのための仕組みが必要になるし、いざやるとなるとプロセスの設計からきちんとやらないといけないけど、自分の会社でもやれたらいいなーと思う。うらやましい。


エスカレーターを歩く

エスカレーターは歩くべきではないという意見もあるけど、今まで歩かなかったことはほとんどない。もちろん誰かと一緒に居たり、重い荷物を持っていて歩けなかったときは別だけど。 何もせずにじっと待って居ることが苦痛で、ちょっとの間だけでも、我慢して乗っているということが出来ない。

エスカレーターを歩く問題点の一つとして、片側を開けておくことにより輸送量が下がってしまうということを聞いたことがある。なるほど確かに、全員立ち止まっている状態だと反対側は空のままなので、その輸送力は50%になる。しかし歩く人がいれば、単位時間当たりの輸送力は上がる。実際の所はどうなのか注意して見て見ると、ほとんどの場合、歩き続ける人でほぼ埋まってる。つまり輸送力という観点だと、むしろ上がっている。

また、対象はほぼ女性に限定されるけど、騒音の問題もあると思う。エスカレーターや階段に限らず、あれはヒールのせいなんだろうか? カンカン・カンカンと、まるでカスタネットのように鳴らしながら歩いている女性が多い。

これは足を投げ出しながら歩いているからで、まるで子供がピコピコ音が鳴る靴を履いて、喜んで歩いているのと同じに思えてしまう。

周りを見渡してみると、筋肉の運動という観点で、まるで正しくない歩き方をしている人が多い。他人事のように書いてるけど、自分も昔はそうだった。何年か前にピラティスに通うようになって正しい歩き方というものを理解して初めて直った。

ピラティスでは一回一時間ぐらいの個人レッスンに通っていた。体の使い方に関する物なのに、団体レッスンにする人の考えが理解できない。

それまでインナーマッスルの使い方を全く理解していなかったので、ピラティスの効果は凄かった。レッスンを受けた初日に、いきなり歩き方が変わった。それまでは、やたらふくらはぎを使って、まるでペンギンのように頭が上下にヒョコヒョコ動くような歩き方をしていた。

それが、説明は難しいけど、踵の方に重心を置いて足の裏全体を使っているような、インナーマッスルをきちんと使った歩き方に変わった。

一度正しい歩き方を覚えると、いくら歩いても疲れなくなった。ただ一つ副作用(?)もあって、それまでと運動量も食事や間食の量もまるで変わっていないのに、ちょっとずつ太ってきてしまった。それまで、いったいどれだけ不必要な筋肉を使ってきたんだか。


通勤用のカバンを買った

いい加減ボロボロになってきたので、通勤用の鞄を買い換えた。今までのカバンは肩紐の付け根は折れて取れてしまっていたし、袖ポケットはボタンと下地が剥がれてしまい、あまりにも見苦しい状態で使っていた。

最初は、これまで10年以上 KANZAN の通勤用カバンを使ってきたので、今回も KANZAN を買おうと思っていた。以前買ったときの店は既につぶれてしまっているので、改めていまどこに行けば買えるのかを調べてみたらサイト上に載ってない。それどころか
「扱っている店舗を知るには問い合わせてください」
とあった。いやいやいや、わざわざ問い合わせなんてしないでしょう。

実物を見て決めたかったのに、扱っている店舗がさっぱりわからない。もしかすると「いいものを作り続ければ勝手に売れていく」と思ってるのかもしれない。あるいは今の販売量で満足している? 結局どこで買えるのかわからないので、買うことは諦めた。就職してからほとんどずっと、KANZAN ブランドのカバンを買い換えて使ってきたけど仕方がない。残念だ。

結局、東急ハンズのカバン売り場に行って、求めるものに一番近いカバンを買ってきた。カバン選びの時には、いくつか外せない条件がある。

  • 荷物はあんまり入れないので、軽いこと
  • 肩紐がついていて、肩にかけることができる事。ただしリュックは却下
  • チャック付きの口が前と真ん中の最低二つ。前には鍵とか携帯とかを入れるので、マグネット式ではなくチャックなのは必須
  • 後ろのポケットには本やiPad mini を入れるので、チャック無しで出し入れできる事(つまりマグネット式)
  • 中身が入ってなくても自立すること
  • 値段は三万以下

これらを全部満たしているカバンは一つしか無かった。株式会社ノーベルの GEENI というブランドの 38012 というもので、価格は12,600円となかなかリーズナブルな価格だった。

あまり身の回りのものに気を使わないけど、
「そろそろ年相応のきちんとしたものにしないといけない」
と思ったので、茶色の少し落ち着いたやつを選択した。

別に特に機能が増えているわけじゃないので、使い勝手は今までとそう変わらないはず。いや、今までは肩紐が取れて使えなくなってたので、そこは機能が増えるというか元に戻ったといえるかもしれない。何だか明日が楽しみだ。


とりあえず一ヶ月間、毎日ブログを書いてみた

文章能力をつけるためにはひたすら書き続ける、つまり質は量からしか生まれないと言う人が多い。

これまでずっと、思考を文章にすることがあまり得意ではないという悩みを持っていたので、まずは一ヶ月間毎日書き続けてみた。書く内容やその質は問わず、とにかく何らかの文章を書くということだけを目標にし、今日がちょうど一ヶ月目になる。

仕事でも結構頭を使い続けるため平日は頭がヘトヘトな状態が多く、正直ネタがあってもそれを文章にするのは結構たいへんだった。それでも書き続けてみた結果、どうでもよかったり、すごく思考が浅い内容の記事が量産されてしまった。

ただその一方で、ネタを何とか一つにまとめて「文章として完成させる」というスキルは上がったように思える。「考えを文書にする」という行為に慣れて特別なものじゃなくなってくるにつれ、別に何かを世の中に問いたいわけではないにせよ、自分の思考を文章の形でアウトプットするという楽しみが、少しずつわかってきた。

また副次的な効果として、雑談力も上がったように思う。自分の専門分野を除き、何かを人に説明することについて苦手意識を持っていたけど、ふと気づくと適当な内容のネタでも、あまり苦になく話せるようになっていた。

今後はどうするべきだろうか。年内いっぱいぐらいまでは駄文でもかまわないので、これまで通り「毎日書き続ける」ということをいったん目的とし続けるというのもある。あるいは毎日完成させることは目的とせず、何らかのテーマについての文章を毎日追加・編集していく、つまり質を目的とした方向に足を伸ばしていく、というのもあり得る。あるいはそのハイブリットか?

なかなか悩ましいところだ。


アナログTV

アナログ放送が終わってもう一年近く経つけど、自宅はまだブラウン管のTVを使っている。もちろんアナログ放送しか映らない。住んでいるマンションではケーブルTVが入っているので、勝手にデジアナ変換をしてくれる。そのおかげでいまだにアナログTVを使い続けることができる。

アナログ停波に関するメッセージが、わりと最近まで画面の下部をスクロールしていて鬱陶しかったけど、気づいたらいつの間にか消えて表示されなくなっていた。

子供が小さいうちは、昔ながらの分厚いアナログTVの方がいい、と思う。液晶画面は手で押すと色が変わるので、いいオモチャになってしまうけど、ブラウン管なら別に問題ない。バンバン叩かれてもまったく怖くない。

ウチではほとんどTVを視ない。視る場合も、リアルタイムで見ることはほとんどない。ある程度面白い事がわかっている番組を録画して、1.3倍速で見ることがほとんど。自分がせっかちというのもあるけど、視ている時間がもったいなく感じてしょうがない。

ただ時々無性に、全録レコーダが欲しくなる。昨日話題になったテレ東の選挙番組のように評判になった番組をあとから見る事ができる、という理由ももちろんあるけど、「全部撮れる」ということに何だかロマンを感じてしまう。

全録レコーダはずっと録画し続けるので電気代が高くなりそうだと思ったけど、調べてみたら最近のモデルだとせいぜい月間500円ぐらいしかかからないみたい。まあたとえ買ったとしても、視る時間がないので撮るだけで満足しちゃいそう。だから、なかなか買うところまでは踏み切れない。結局、デジアナ変換が終了するまでは、このままアナログTVを使い続けるんだろうな。


GUNSLINGER GIRL の15巻を読んだ

もう10年ぐらい前、音楽漫画に異様にハマっていた時期があった。テーマが楽器のものはもちろんのこと、表紙に少しでも音楽・楽器が描かれているものは手当たり次第に読んでいた。

アニメや萌え系の漫画には興味が無いので、GUNSLINGER GIRL のような絵柄の漫画は普段は手に取ることも読むこともない種類の漫画。最初に知ったのはたぶん漫画喫茶でだったと思う。何となくパラパラと読んでいくうちに、これは単なる萌え系の漫画とはちょっと違うことに気づいた。今までそんなことをしたことは一度もないけど、漫画喫茶の帰りに本屋で単行本を買って帰った。

最初の巻の方は、「不幸な身の上の少女達が過去の辛い記憶を洗脳されて無敵の体を手に入れ、国家の秘密組織で少女の殺し屋として働く」といういわば非日常な日常の中でも、健やかかつ平穏な日常を取り戻していく。ある種矛盾した日々を描き、主に「救済」を中心としたような話が多かったように思える。その後次第に、少女達とその担当官とのLOVEではなく、親子や友人間の愛情、絆のようなものをテーマとした話が増えていった。

最終巻であからさまに言っているけど、最終テーマは希望。最悪の状況から義体となり生まれ変わり、そしてテロリストと戦いながらまた死んでいく。あるものは生き残り、あるものはまた死ぬ。敵味方を問わず、その望みが叶うものも叶わないものも、最期は希望やそれが未来へ繋がっていくという思いと共に亡くなっていく。全ての流れが、希望というテーマに収斂されているように感じさせられる。

単なる後日談であったり、あるいは最後に綺麗にまとめて終わるためだけの最終話はよくあるけど、この漫画ではちょっと違っていた。これまでの全ての話は、希望という一大テーマを伝えるために存在していたのではないか、と思わされる。

読み終わった後はものすごく良くできた映画をみた気分。とても気持ちいい。その絵柄から、いわゆる萌え系漫画と思われてしまって敬遠されてしまうのがとてももったいない。これは絶対に読んで損がない漫画だと言える。


利き手

幼児ぐらいの頃は左利きだったらしいけど、それだと
「大人になってから色々不便だろう」
と思ったらしく、右手を使うように躾られた。親はすべてのことに対して右手を使うように矯正したかったみたいだけど、結果、利き手が中途半端になってしまった。

文字を書いたり刃物を使う時は右手しか使えない。電話を持ったり、急須からお茶をいれる、コップを持って飲むといった動作は左手でしかできない。ボールを投げたり、スプーンやおたまのようなものはどちらの手でも同じぐらいできる。

今まであんまり深く考えたことがないけど、文字や刃物などのように正確に力を加えないと成り立たないような動作は右手でしか使えないようだ。刃物は右手用のものがほとんどなので、これは親に感謝しないと。一方、何かを注いだりするような、位置決めが必要な動作は左手でしかできない。このあたりを深掘りしていくと人間の脳の構造が見えてくるような感じがして、何だか不思議に思える。

一応は両利きと言われる範疇にあるので、人には
「両利き、いいなー」
と言われることもあるけど、全然そう感じることが無い。

日々の生活で行う動作のほとんどが右手でしかできないこと、左手でしかできないこと、と別れてしまっているので、せいぜい怪我の時や片手がふさがっている時に、反対の手を多少使える程度でしか無い。

むしろ一方の手でしかできないことがあるので、危険率は高いかもしれない。片手利きなら例えば片手を怪我したとしても、それが日常の動作に支障が出る(つまり利き手を怪我する)確率は50%だけど、両利きだとある意味100%とも言える。

美大のような芸術系の人間が集まるような場所だと、両方の手にペンや鉛筆を持って同時に使える真の両利きが多いらしい。そこまでいってて始めて、両利きが便利と言えるんじゃないかな。個人的には残念だけど、何のメリットも感じない。


花の金曜日

今日は金曜日。そういえば昔は花金という言葉があった。

花金という言葉はどうやら週休二日制が始まった1980年ごろのバブル時代に流行った言葉らしい。バブル崩壊後、景気の悪化とともに段々と死語となっていったようだ。花金は花の金曜日の略で、「金曜日の晩に遊んで(飲み歩いて)楽しむこと」を意味していた。

自分以外の人は、自分の知らない、もしくは想像もしないような充実した週末をすごしているんじゃないのだろうか。時々ふと、そう思うことがある。元々あまり趣味らしい趣味も無かったので、子供が産まれてからの週末は、子供の世話とコミュニケーションを図るための大切な時間となっている。金曜日は、単なる休みの前日の位置づけにすぎない。

ずっと家にいる嫁にとってはどういう感覚だろうか? 平日はずっと家の中で子供の世話をしているので、自分がいる週末は少しは安心しているんじゃないかと思う。だとすると、週末は子供の世話を積極的にしたり、意図的に嫁が息抜きができるような機会を作ってあげるのが、家庭円満につながるのではないか。

おそらくパターン化した日常になってしまっているだろうから、DVDを借りてきて一緒に見るとか、平日とは違うちょっとした「非日常」を提供してあげるといいかもしれない。明日はそれを意識して過ごしてみてみよう、と思った。


踏切をくぐる

最近は高架工事も進んできて踏切自体、段々と減ってきているらしい。ただ駅に向かうときに必ず踏切を渡らないといけないため、残念ながら個人的にはあんまりそういう実感を持てない。

昔と比較すればだいぶマシになってきていると思うけど、それにしても
「これは過剰じゃない? 一度開けて人や車を通せばいいのに」
と感じさせられるほど、無意味に閉じているケースはまだまだ多い。

踏切手前にあるホームで停車するにも関わらず遮断機を閉めっぱなしにしていたり、あるいは踏切の左右ともに電車の姿形も無いのに待たされている時はいつも、「遮断機をくぐり、ゆーっくりと渡る。何なら線路の真ん中あたりで深呼吸なんかしてみたり」という感じに、遮断機をくぐっても問題がないかイメージングして遊んでいる。

そこまでゆっくりしても、これまで一度も轢かれたり、電車が接近したことが無い。まだ電車の姿形が見えないすら多い。

踏切事故のうち、主原因が明らかに自殺の場合を除いたものを踏切障害事故というらしい。平成22年度 交通事故の状況及び交通安全施策の現況 によると、2010年の歩行者の踏切障害事故数は93件、月にならすとおよそ7.7件なので、思ったよりも少ない。

遮断機をくぐるのは何かの法律に違反するのかどうかを調べてみたところ、明確には記載されてはいないようだ。ただ 交通事故110番 によると、少なくとも安全確認義務違反であるため、仮に事故にあっても保険給付はされないか減額される可能性が高そう。

また別のサイトには、「遮断機が下りると踏切のセンサーが働き、そこに人が居ると感知されると半径500メートルの駅・列車に非常停止命令が出て、駅員が「異常なし」と報告するまでは電車が止まります。」という指摘が書いてあった。これは結構な問題点だし、仮に電車を止めてしまった場合には損害賠償請求以前に、駅に着いて電車に乗ろうと思っても電車が動かなくなっている可能性がある。

まぁ基本的には電車は運行時間どおりに走っているので、結果として遮断機が空く時間も決まった時間になる。電車に乗る時間と同様、何時に踏切を渡るかという所も計算して、スケジューリングするのが一番かもしれない。